現在、自らを「代表取締役遊び人」と名乗る原₆ 直之₃(はら なおゆき)さん。
一般常識や世間からの評価に縛られず、仲間と遊び、酒を飲み、祭りをつくり、自分が心から面白いと思えることに時間とお金を使う。

そんな現在の姿からは想像しづらいが、かつての原さんは、むしろ誰よりも「頑張ること」に縛られていた。
大阪で過ごした幼少期。父との関係。勉強で自分の価値を証明しようとした学生時代。そして、大手銀行グループのSEとして上京してから始まった社会人人生。
フリーター、ベンチャー、フリーランス、起業——。
「もっと上へ」「もっと頑張らなければ」。
そうやって走り続けた先に、原さんは何を手に入れ、何を失ったのか。
“自由人”になる前の、原₆ 直之₃の半生を辿る。
「勉強だけは負けない」——劣等感から始まった努力
大阪で生まれ育った原₆ 直之₃さんは、弟との二人兄弟の長男として育った。

幼少期を過ごしたのは、多くの家族が暮らす団地。周囲には同世代の子どもたちがたくさんいて、外に出れば自然と誰かがいる。友達と遊びながら過ごす、ごく普通の少年時代だった。
決して、幼い頃から目立つタイプだったわけではない。
体が大きかったわけでも、足が速かったわけでもない。いろいろなスポーツに挑戦したものの、なかなか思うようには上達しなかった。対照的に、弟は身体能力に恵まれていたという。
母親には、そんな原さんの姿が心配に映っていたのかもしれない。

「いじめられているんじゃないか」と心配されることもあった。しかし原さん自身にとっては、むしろそう思われることの方が嫌だった。
そんな少年時代のなかで、ひとつだけ「誰にも負けない」と思えるものがあった。
それが、勉強だった。
「運動では勝てない。でも、勉強なら負けない」
勉強ができれば先生から認めてもらえる。生徒会の役員にも選ばれ、周囲から評価される機会も増えていった。
一方で、中学時代には周囲との人間関係で苦しむこともあった。原さん自身、「暗黒時代だった」と振り返る。

だからこそ、勉強への思いはさらに強くなっていった。
自分を軽く見る人たちを見返したい。
もっと勉強して、いい高校へ行き、いい大学へ進みたい。
原さんは、当時について「劣等感を埋めるため、ひたすら勉強を頑張る選択をするしかなかった」と振り返っている。
努力はいつしか、自分の価値を証明するための手段になっていた。
そして原さんは、大阪でもトップクラスの進学校へと進む。
中学までの原さんにとって、勉強は自信の源だった。これまで周囲よりもできることが当たり前だったからこそ、高校でも同じようにやっていけると思っていた。
しかし、入学して最初のテスト。
返ってきた答案に書かれていたのは、これまでの原さんには想像もできなかった点数だった。
0点。
周囲にいるのは、それまで自分がいた環境では出会わなかったような学力を持つ生徒たちだった。
「レベルが違う」
それまで自分を支えていた、「勉強ができる自分」というアイデンティティが揺らぎ始めた。
さらに高校3年生になる頃、原さんの人生は勉強どころではない大きな変化を迎える。

父方の祖母が亡くなり、時を同じくして父親がリストラに遭った。父は祖母が残した遺産を元手に起業するものの、事業はうまくいかず、借金を抱えることになる。そして、やがて家に帰ってこなくなった。
両親は離婚。
大学受験を目前に控えた原さんは、突然、家族の現実とも向き合うことになった。
母親からは、
「大学に行かせてあげられないかもしれない」
と告げられた。
それでも、進学を諦めたくはなかった。
原さんは受験勉強を続けながら、新聞配達を始めた。
振り返れば、この頃にはすでに、後の原さんを長い間縛ることになる生き方が出来上がっていたのかもしれない。
苦しいなら、もっと頑張る。
足りないなら、自分でなんとかする。
認められたいなら、結果を出す。
「頑張らなければ、自分には価値がない」——。
当時はまだ、その感覚に疑問を持つことすらなかった。
そして迎えた大学受験。
思うような結果を残せず、進学そのものが危ぶまれるなか、原さんのもとに一本の電話がかかってくる。
相手は、受験していた神戸大学だった。
その電話が、原さんの人生を次のステージへと動かしていく。
父の失踪、新聞配達、そしてつかんだ大学進学
高校3年生。大学受験を目前にして、原さんを取り巻く環境は大きく変わった。

父親が仕事を失い、起業するもうまくいかず、借金を抱えて家を離れた。両親は離婚し、母親からは「大学に行かせてあげられないかもしれない」と告げられた。
それでも、大学進学を諦めるという選択肢はなかった。
家計を支えながら進学するため、受験前から新聞配達を始めたという。
これまで勉強を武器に生きてきた原さんにとって、大学受験は「ここで人生を変えたい」という思いも強かったのだろう。
しかし、結果は思うようにはいかなかった。
センター試験でつまずき、その後、神戸大学を受験。結果を待ちながら、これからどうすればいいのか分からず途方に暮れていた。
そんな原さんのもとに、神戸大学から一本の電話が入った。
補欠合格だった。
さらに、入学金こそ必要だったものの、授業料などは免除されることになった。
進学自体が難しいかもしれないと思っていた原さんにとって、それは大学への道をつないでくれた大きな出来事だった。
「ありがたかったですね」
こうして、原さんは神戸大学へ進学する。
本来であれば、アルバイトをしながら家計を支えることも考えていた。しかし大学で原さんが選んだのは、体育会系のカヌー部だった。

決して楽な環境ではない。
授業には毎日出席して単位を取りながら、部活動にも打ち込む。高校時代までと同じように、大学でもまた、自分を追い込むように走り続けた。
当時の原さんには、それが特別なことだという感覚すらなかったのかもしれない。
厳しい状況なら、自分が頑張ればいい。
大変なら、それ以上に努力すればいい。
幼い頃から身につけてきたその生き方は、大学に入っても変わらなかった。
そして4年間を走り抜け、いよいよ就職活動を迎える。
国立大学に通い、体育会系の部活動も4年間続けてきた。

「これだけやってきたんだから、どこかには受かるだろう」
原さん自身、そんな気持ちがあったという。
ところが、有名企業にエントリーしても、結果はことごとく不採用。
自分なりに積み上げてきたものが、社会では思ったほど評価されない。
かつて進学校で味わった挫折とはまた違う形で、原さんは再び自信を失っていった。
そんななか、内定を得たのが当時の三和銀行の子会社である三和システム開発だった。
後に大手三菱UFJグループへとつながる企業への就職。一見すれば、十分すぎるほど順調なキャリアのスタートにも見える。
しかし、原さん自身の感覚は違った。
「正直、妥協して入ったんですよね」
もっと上へ行けると思っていた。
もっと評価されると思っていた。
就職活動で何度も落とされた経験は、原さんの中に新たな劣等感を残していた。

それでも22歳の春、大阪を離れて東京へ向かう。
家族のもとを離れ、新しい土地で始まる社会人人生。
念願だったはずの「自由」が、ようやく手に入る——。
しかし東京で待っていたのは、原さんが思い描いていたような解放感だけではなかった。
むしろここから、「もっと上に行かなければ」という焦りが、さらに原さんを突き動かしていくことになるのだ。
「もっと上へ」——東京で膨らんでいった焦り
22歳で大阪を離れ、東京へ。
新卒で配属された職場は、当時のUFJ銀行本社。そこでSEとしての仕事に携わり、社会人人生をスタートさせた。憧れていた一人暮らしも始まり、仕事も生活も大きく環境が変わっていった。

そこで待っていたのは、思い描いていたような生活ではなかった。
同期とはなかなか馬が合わず、次第に周囲から孤立していく。
就職活動で何社も不採用になった経験も、原さんの中には残っていた。
「もっと上に行きたい」
せっかく大手企業に入ったにもかかわらず、その環境に満足することはできなかった。
そんなとき、同じ部署の先輩から紹介されたのが、起業や独立をテーマにした自己啓発セミナーだった。
会社員として決められた道を歩むのではなく、自分自身の力で人生を切り拓いていく。
その考え方に触れた原さんは、次第にセミナーへとのめり込んでいった。
やがて、自分が参加するだけではなく、周囲の人たちにも声をかけるようになる。しかし、その熱量は会社の中では理解されづらく、職場でも徐々に浮いた存在になっていったという。
振り返れば、この頃も原さんを動かしていたのは、「もっと頑張らなければ」という思いだった。
幼少期は勉強。大学では体育会の部活動。そして社会人になってからは、仕事や起業のための学び。
環境が変わっても、自分を追い込み続ける生き方そのものは変わっていなかった。原さん自身、社会人になってからも起業家セミナーに没入し、自分を追い込む毎日を送っていたと振り返っている。
そして入社から2年ほど経った頃、原さんは会社を辞める決断をした。
それまで積み上げてきたものを考えれば、そのまま安定した道を進む選択肢もあった。
それでも原さんが次に選んだのは——
時給800円ほどの、スターバックスでのアルバイトだった。
大手銀行グループのSEという肩書きを手放し、社会的な“正解”と言われる道から外れていく。

この時期に始めた飲み会や交流会、イベントへの参加によって、原さんは東京で少しずつ人とのつながりを増やしていく。
後に仕事やコミュニティ、そして人生そのものを支えることになる「仲間」という存在。
その原点は、意外にもこのフリーター時代にあった。
SEから時給800円のスタバ店員へ
大手銀行グループのSEを辞めた原さんが次に選んだのは、スターバックスでのアルバイトだった。
時給は800円ほど。
国立大学を卒業し、大手銀行グループの社員へ就職した経歴だけを見れば、大きく方向転換したようにも映る。
当時の原さんにとって重要だったのは、肩書きや収入よりも、その先にある「独立」だった。
会社員時代から通っていた起業家セミナーにも引き続き参加していたが、そこでは人を誘い、仲間を増やしていく必要があった。
ところが、大阪から上京してまだ数年。東京には気軽に声をかけられる友人がほとんどいない。
「だったら、人と出会わなきゃいけない」
そう考えた原さんは、飲み会や交流会、社会人サークル、イベントなど、とにかくさまざまな場所へ顔を出すようになった。

そこで出会った一人が、後に妻となる女性だった。
当時は恋愛関係ではなく、むしろよく意見をぶつけ合う仲間のような存在。突拍子もない発言をする彼女と原さんは衝突することも多く、この時点では、まさか後に結婚し、家族になるとは思っていなかったという。
一方で、人との出会いを求めて動き続けたこの時期は、原さんにとって新しい世界が広がっていった時間でもあった。

後にイベントを企画したり、人を集めたり、仲間とコミュニティをつくったりする原さんの原型は、この頃から少しずつ形づくられていたのかもしれない。
ただ、自由な生活には現実的な問題もあった。
好きなことをしながら過ごす生活を1年半ほど続けるうちに、お金が底をつき始める。
「さすがに、これからどうしようかな」
そんなタイミングで声をかけてくれたのが、交流のなかで知り合っていたITベンチャーのマネージャーだった。
人手が足りないから、一緒に働かないか——。
24〜25歳頃、原さんはその会社に入り、WEBディレクションなどの仕事に携わるようになる。
ここで、原さんは仕事の基礎を徹底的に学んだ。
本人が「修行」と振り返るほど、その後のキャリアにつながる経験を積んでいく。
SEを辞め、アルバイト時代を経験し、人と出会い、再び仕事の世界へ戻ってきた。
一見すると遠回りにも見える。
けれど、この期間に得たものは、肩書きではなかった。

「仕事をする力」と、「人とのつながり」。
この二つが、原さんが会社に頼らず生きていくための土台となっていったのだと考える。
そして数年後。
原さんが「そろそろ独立したい」と考え始めた矢先、勤めていたITベンチャーが倒産する。
多くの社員が突然の出来事に戸惑うなか、原さんの心境は少し違っていた。
会社がなくなったことで、図らずも目の前に現れた「独立」という道。
ここから原さんは、初めて本格的に会社に雇われない生き方へ踏み出していくことになる。
会社の倒産が開いた、フリーランスへの道
勤めていた会社が倒産する。
突然の出来事に、周囲の社員たちは「これからどうしよう」と戸惑っていた。
しかし、原さんにとっては少し違った。
もともと独立を考えていたこともあり、会社がなくなったことをきっかけに、サラリーマンへ戻るのではなく、自分の力で仕事をしていく道を選んだ。
ちょうどその頃、以前から付き合いのあったクライアントから仕事の話をもらっていた。
会社が倒産したことを伝え、そのクライアントのもとでフリーランスとして働き始める。
さらに、仕事を探すことになった元同僚たちにも声をかけ、10人ほどを新たな仕事先へとつないだ。その結果、紹介料を受け取ることになり、原さんにとってはそれが会社からの「退職金」のようなものになったという。
自分の仕事を確保するだけではなく、これまで一緒に働いてきた人たちの次の場所までつないでいく。
原さんが大切にする「仲間」や「与える」という価値観にも通じる行動だった。

こうして28〜29歳頃、原さんは会社という枠から離れ、フリーランスとして働き始める。
時間の使い方も、誰と仕事をするかも、自分で決められる。
この頃について「一番楽しかった時期だった」と話す。
SEだった頃には、もっと上へ行かなければならないと思っていた。
会社を辞めた後も、独立するために人脈をつくらなければならないと、自分を追い立てていた。
それがフリーランスになり、ようやく自分の力で仕事を選び、生きていけるようになった。
長い間求めていた「自由」に、少しずつ近づいているように思えた。
そして、そんな原さんに新たな話が舞い込む。
仕事でつながっていた人物から、
「新しく会社をつくるから、社長をやってくれないか」
と声をかけられたのだ。
その会社こそ、現在まで続く株式会社フィールドにつながっていく。

同じ頃、プライベートでも大きな変化が訪れていた。
長い付き合いのあった女性との関係が変わり、結婚。そして、子どもが生まれる。
起業、結婚、出産。
人生の大きな出来事が、ほとんど同じタイミングで押し寄せた。
フリーランスとして自由を楽しんでいた原さんは、ここから「社長」と「父親」という二つの役割を背負うことになる。
そして、このとき始まった会社が、後に2,500万円の借金を背負う決断を迫ることになるとは、まだ知る由もなかった。
手に入れたもの、背負ったもの
こうして原さんは、ゲーム業界の仕事を軸に会社経営へと踏み出す。

原さんはいわば「雇われ社長」。
自身が持つ株式は一部で、会社の株式の多くは別の株主が保有していた。
それでも事業は順調に伸びていった。
「当時は、好きなことをやっているだけでも売上が伸びていったんですよね」
仕事が面白く、結果もついてくる。
そして同じ頃、プライベートでも人生の大きな転機を迎えていた。
20代前半、東京に友人をつくろうと参加していた社会人サークルで知り合った女性との関係が、長い年月を経て変化していった。
もともとは、顔を合わせれば意見をぶつけ合うような仲間だった。
しかし30代に入った頃、共通してお世話になっていた人物が亡くなったことをきっかけに、二人の距離は縮まっていく。

そして33歳頃に結婚。
ほどなくして子どもにも恵まれた。
仕事でも家庭でも、守るものが一気に増えた時期だった。
原さん自身、できる限り子育てにも関わりながら仕事に打ち込んだという。
一方、順調に見えた会社にも転機が訪れる。
好調だった市場環境が変化し、それまでのように仕事が入ってこなくなった。
さらに、雇われ社長という立場だった原さんには、会社を自由に動かせない難しさもあった。
このまま会社が立ち行かなくなれば、一緒に働いてきた従業員たちの行き先もなくなってしまう。
その状況を、原さんは見過ごすことができなかった。
そこで選んだのが、自ら借金をして株式を買い取り、会社を引き受けることだった。
背負った借金は、2,500万円。
決して小さな金額ではない。
それでも、社員や事業を残すために会社を自分の手に引き取った。
そこから2〜3年。
原さんは借金を返済するため、再び仕事に打ち込んだ。
幼い頃から何度も繰り返してきたように、苦しい状況になればなるほど、自分が頑張ることで乗り越えようとした。
そして、ようやく2,500万円を完済。
「これで、やっと自由になれる」
会社も少しずつ上向き始め、ここから改めて自分たちの事業をつくっていける。
そう思った矢先だった。
世界を、新型コロナウイルスのパンデミックが襲う。
仕事だけではない。
家庭、人とのつながり、そして、それまで原さん自身を支えてきた「頑張ればなんとかなる」という価値観まで。
ここから、さまざまなものが揺らぎ始める。

誰かに認められるために、努力し続けてきた。
その生き方を根本から見つめ直すことになる時間が、ここから始まっていく。
【次回予告】
後編では、家庭の変化や離婚、コロナ禍での孤独、そして再び訪れた人生のどん底を経て、原さんが「代表取締役遊び人」と名乗るまでを追っていく。
▶ 後編はこちら
▼SNSリンク・活動情報
◼︎各種SNS・プロフィール
lit.link(SNS・活動情報まとめ)✅

◼︎株式会社フィールド
SES事業をはじめ、原さん自身の「自由人」としての生き方を体現しながら、今後はエンターテインメントや人が楽しめる場づくりなど、新たな活動にも取り組んでいく🗺️(公式サイト)
◼︎YouTube・出演情報
原さんのこれまでの経験や人柄、人生観などを知ることができる出演コンテンツ🎥
【YouTube】
ようがっこう 生き方クラス7限目「その男、ハラチョク〜気は優しくてポルシェ持ち〜」
#12 原₆ 直之₃ |はらちょく。代表取締役 遊び人 兼、北参道サロン オーナー
◆前編:【CEOさんいらっしゃい#4】変態過ぎる社長たちの秘密とは!?
◆後編:【CEOさんいらっしゃい#4】変態過ぎる社長たちの秘密とは!?
◼︎Instagram
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◼︎地域・コミュニティ活動
「チーム用賀」を“地元”や“村”のようなコミュニティとして大切にし、用賀サマーフェスティバルをはじめとした地域活動にも参加。今後は株式会社フィールドとしても、さまざまな人がつながり、一緒に楽しめるイベントや場づくりを広げていくことを目指しているコミュニティです👥
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