殴ることでしか生きられなかった僕が、夢を諦めた人に“チャンス”を届けるまで―― 田島 昭太という男の再起の物語

interview

殴ることでしか、自分の存在を証明できなかった少年がいた。
貧乏を笑われ、家庭では暴力に怯え、強さにすがることでしか生きられなかった。

やがて病気、離婚、倒産――
すべてを失った35歳。

それでも彼は今、
「夢を諦めた人にチャンスを届けたい」と語る。

鹿児島出身、田島 昭太(たじま しょうた)。
その再起の物語は、まだ途中である。

残っている幼少期の記憶

1986年11月10日、鹿児島県。
小さな町で、長男として生まれた。

名前をつけたのは父だった。
祖母の家で開かれた命名式。
そのとき、どんな未来が待っているかなど、誰も想像していなかっただろう。

幼少期の田島さんは、ぼーっとした静かな子だった。
幼稚園では、食べ物を口にしたときだけ笑うような子。
両親は共働きで、日中はほとんど祖母の家で過ごしていたという。

幼少期、家は裕福ではなかった。
世帯年収は300万円台前半。
中学までジュースを飲んだことがない生活。
牛乳、水、お茶。それだけ。

小学生の頃、同級生に言われたずっと記憶に残っている言葉。

「お前の家は貧乏だから、羨ましいだろ」

目の前でお菓子を食べられ、自分は買えない。
あのときの悔しさは、今も消えていないという。

一方で、自分のお菓子を半分に割ってくれた友人の存在は、今でも記憶に残っている。

劣等感と優しさに触れた幼少期。
その両方が、彼の原点にある。

暴力という“鎧”

家庭では父が厳しかった。
暴力での教育もあったという。

だが父は同時に、こう言い続けていた。

「どんなことがあっても、女には手を出すな」

理不尽と倫理。
矛盾するような教えの中で育った少年は、やがて「強さ」に執着する。

中学に入り、彼は変わる。

ドラマ『キッズウォー』に憧れた。
喧嘩がかっこいいと思っていたし、自分の身を守る手段はこれしかないと思った。

「人を殴るのが快感だった」と、本人は正直に語る。

からかわれたくない。
負けたくない。

強くなれば、笑われないと思った。

この頃、思春期真っ只中で、好きな女の子ができた。
13歳から22歳まで、一途に想い続けるほどの存在だったという。

だが、4回振られた。

その子は、当時からどこか寂しそうだったという。
かつての自分を見ているようだった。
そして、父からの女性への扱いを徹底されていたこともあり、守ってあげたいと率直に思っていた。

だが中学時代、仲が良かった友人がその子と付き合うことに。
応援してくれていると思っていた友人から言われた。

「お前ほんとに懲りねぇな」

その瞬間、人間不信が始まった。
そこから荒れた。

教師の頭に消しゴムを投げる。
ロケット花火を民家に打ち込む。

学校の壁を殴って穴を開けた日、親に連絡がいった。

怒られると思ったが、そんな彼に父は言った。

「大丈夫か」

その何気ない一言が、どこか胸に残ったという。

腐りきれなかった少年

進学したのは、偏差値38の農業高校。
地元では“3バカ”と呼ばれていた。

だが、彼は成績上位だった。

剪定にも興味があり、本当は庭師になりたかった。
だが現実を見て、機械科へ進むことに。

通っていた高校はかなり荒れていた。
だが2年生の時に校長が変わったことで、荒れていた高校が変わりつつあった。

「バイクの免許を返納するか、学校を辞めるか」

大改革だった。
この2択を迫られた多くの生徒が、学校を去る決断をした。

田島さんが3年生の時、警察署が学校に感謝を伝えに来たという。
それくらい、地元では素行が悪い学校で有名だった。その後、暴走も暴行も激減した。

そんな時、彼は“逆高校デビュー”をする。

目立たず、野球と勉強を直向きに頑張る。
先生にも評価された。

だが裏では、ヤンキーを従え、悪さを被せることもしていた。

「うまく立ち回ってましたね」

そう振り返る。

千葉で味わった孤独

高校卒業後は、製鉄所へ勤めた。
面接もなく、人手不足だったという理由で採用された。

18歳、千葉へ。

配属されたのは、刺青のある人、小指のない人がいる部署。
製鉄所の現場は灼熱だった。

巨大な炉の前で汗を流す日々。
そして、怒号が飛ぶ。

入社2年目には親会社へ出向。2年間いじめられるという経験を乗り越え親会社への昇格を獲得するも、その直後リーマンショックの経営不振で解除される。
その後、所属会社に戻った。

入社してから有給を一度も使わなかった彼に、上司が言った。

「地元に帰ってこい」

その後、久しぶりの帰省。
友人に言われた。

「お前大丈夫?」

彼の顔を見るなり、心配でかけられた言葉。
そこで初めて、自分の置かれている状況を見つめ直し、退職願を出すことに。

退職願を出した日、上司は言った。

「いつ持ってくるかと思ってた。
お前のレベルでここにいるのはつまらないだろ。
いつも頑張り見てたぞ」

いつも厳しかった上司が、実は誰よりも自分のことを理解して心配してくれていた事実を受け止め、涙が止まらなかった。

そして、次に向かう先も何も決めないまま退職した。
後に精神科医から、「それはうつ状態だった」と言われたという。

愛と、守れなかった現実

23歳。
専門学校に通っていた時に、初めて本気で付き合った女性がいた。

だが、3ヶ月しか続かなかった。
それでも、人生で一番幸せだったという。

「なんで怒ってくれないの?」

遅刻を繰り返す彼女に、そう言われたことがある。

怒れなかった。
彼女と会えるだけで嬉しかったから。
パートナーとして相手が求めていたことをできなかったことが、別れの原因だったのかもしれない。それくらい、幼少期からの父の教えは田島さんの良さを形作っているのだと思う。もしくは、その言葉が田島さんを縛っているのかーー。

その後、彼女が結婚したと知り、25歳から彼女を作らなかった。

そんな彼は、28歳の時に飲み屋で出会った女性とお付き合いをすることに。
彼女の過去の恋愛は、壮絶なものだった。
ヤンチャしていた方も多く、DVをされていたという事実も知ることに。
そこからより、彼の優しさや守りたいとう想いが強くなり、30歳で結婚を決意した。

やがて、三菱商事グループへ転職。
給料のほとんどを参考書に費やす。

努力すれば収入は上がる。
次々と資格を取得し、それを証明した。

仕事一筋だった彼は、仕事以外にも頑張る理由ができ、これからだ!という時にナルコレプシーを発症した。
安定していた生活が崩れ、夫婦仲も悪くなり離婚。

35歳で退職をした。

すべてを失って見えたもの

退職後は、カメラマンや編集の仕事をしていた。

月収50万。
何も満たされなかった。

それから、全てを投げ捨て、太陽光の営業職を経験することに。
その半年後には金融コンサルティング会社にヘッドハンティングされ、売上は半年で5,000万円を達成するも、社長の横領による資金繰り悪化で会社が倒産。

責任は、全て自分達にのしかかってきたという。

会社が倒産してしまった頃

「もう終わったと思いました」

だが、その時、周囲に助けられたという。
また、ある時とある先輩から言われた言葉が蘇る。

「そのままでいいのか?」

その後、営業コンサルティングとして再スタートを切る。
そこから、周囲に自分のこれまで蓄えてきた知識を徹底的に教えることを経験する。

営業コンサル始めた頃

昭太会という挑戦

現在、田島さんはバーの経営支援として現場に立ちながら、もう一つの顔を持っている。
経営者コミュニティ「昭太会」の主宰者だ。

このコミュニティには、すでに100社を超える経営者や個人事業主が所属している。

だが、いわゆる“交流会”や“名刺交換の場”とは、少し空気が違う。
実際に行われているのは、もっと地に足のついたものだ。

たとえば、日経新聞や最新の経済ニュースを題材にした情報共有。
単に記事を読むのではなく、「このニュースが自分のビジネスにどう影響するのか」まで落とし込む。

毎週水曜日に行われる対面の勉強会では、参加者同士が自分の課題を持ち寄る。
採用がうまくいかない、営業が伸びない、資金繰りに悩んでいる——。

そうしたリアルな悩みに対して、経験や知識を持つメンバーが意見を出し合う。

「ここでは、綺麗事だけじゃ通用しないんです」

そう彼は言う。

実際、昭太会の中では、
採用支援がきっかけで人材が見つかった企業や、
営業の仕組みを見直して売上を伸ばしたケースも出ているという。

また、彼自身も、アポイント代行や採用支援、資金調達の相談など、実務面でのサポートに関わることが多い。

ただ話を聞くだけでは終わらない。
“その場で何かが動く”のが、このコミュニティの特徴だ。

さらに印象的だったのは、参加者の温度感だ。

挑戦している人間しかいない。
言い訳をする人間は、自然と居づらくなる。

逆に言えば、「変わりたい」と思っている人にとっては、これ以上ない環境ともいえる。

「自分もそうやって助けられてきたんで、今度は支える側に回りたいんですよね」

全財産を失い、どん底にいたとき、周囲に救われた経験。
それが、この場を作る原点になっている。

目標は、1万人。

単なる規模の話ではない。
挑戦する人間を増やすこと。

そして、どんな環境に生まれても、
「ここからでも変われる」と思える人を増やすこと。

昭太会は、そのための“人生が動き出す場所”でもある。

2032年、鹿児島県知事へ

田島昭太は、2032年に鹿児島県知事を目指している。

突拍子もない夢に聞こえるかもしれない。
だが、その言葉の裏には、彼自身の原体験がある。

貧乏だったこと。
「どうせ無理だ」と言われてきたこと。
努力しても、環境に潰されそうになったこと。

そして、どん底に落ちたとき、
“環境によって人生は大きく左右される”という現実を、何度も突きつけられてきた。

「地方にいるだけで、選択肢が狭まるのはおかしいと思うんです」

取材の中で、そう語っていた言葉が印象的だった。

鹿児島には、可能性がある。
だが同時に、挑戦の機会が限られているのも事実だ。

若者が地元を離れる。
戻ってこない。
挑戦する前に、諦めてしまう。

その構造を、変えたい。

だから彼は、政治というフィールドを見据えている。

単に肩書きを得たいわけではない。
自分が経験してきた“機会格差”を、次の世代に繰り返させないためだ。

経済を回す仕組みをつくる。
学ぶ環境を整える。
挑戦できる土壌をつくる。

それは決して綺麗事ではなく、
これまでの人生の延長線上にある現実的な目標だ。

そして、その最初の一歩が、いま取り組んでいる「昭太会」である。

一人では変えられない。
だが、人が増えれば変えられる。

そう信じている。

夢を終わらせないために

暴力
貧乏
病気
離婚
倒産

何度も、終わりかけた人生だった。
それでも、立ち上がってきた。

特別な才能があったわけではない。
ただ、環境を変え、行動し続けただけだ。

だからこそ、彼は言う。

「人生は、何度でもやり直せる」

その言葉は、理想ではない。
経験から出てきた言葉だ。

もし、いま何かを諦めかけている人がいるなら。
もし、「どうせ無理だ」と思っているなら。

その考えを変えるきっかけは、きっとどこかにある。

そして、その一つが——
田島 昭太という存在なのかもしれない。

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