【前編】BAR経営者・川林誠弥とは?長崎出身の元電気工事士が語る人生の原点

interview

「人生は一度きり。」

そう語るのは、東京都内でBARを経営する川林 誠弥(かわばやし せいや)さんだ。

長崎県で育ち、サッカーに打ち込み、工業高校では技能五輪を目指して技術を磨いた。その後、関電工、JCB、警備業界など様々な仕事を経験し、現在は多くの人が集うBARのオーナーとして活躍している。

一見すると一貫性のないキャリアにも見える。しかし、その根底には常に「人とのつながり」と「行動する勇気」があった。

今回は、川林さんのこれまでの歩みと、BAR経営に込める想い、そして未来への展望について伺った。

人を大切にする原点

現在はBARオーナーとして多くの人と関わり、初対面の相手とも自然に打ち解ける川林さん。しかし、意外にも幼少期は人見知りな性格だったという。

「小学校に上がる前までは、姉の後ろに隠れているような子でしたね。」

2歳年上の姉の背中に隠れ、人と話すことも得意ではなかった。仲良くなるまでに時間がかかるタイプで、自分から積極的に輪に入っていくような子どもではなかったという。

そんな川林さんが変わり始めたのは、小学校に入ってからだった。

時間をかけて友人が増えるにつれ、次第に誰とでも話せるようになり、気づけばクラス全員と仲良くなれる存在になっていた。

その根底にあったのは、人への強い思いやりだった。

通知表には、「一人でご飯を食べている子がいたら一緒に食べている」「困っている人を見ると放っておけない」といった内容が書かれていたこともあった。

いじめられている子がいれば助ける。
仲間外れになっている子がいれば声をかける。

今振り返れば、それは現在の川林さんが大切にしている“人との向き合い方”の原点だったのかもしれない。

小学3年生になると、友人からの誘いをきっかけにサッカーを始める。
実はそれまでにも水泳や空手など様々な習い事に挑戦していたが、長続きはしなかった。

そんな中でサッカーだけは続けることができた。

「たぶん、チームスポーツだったからだと思います。」

仲間と一緒に目標へ向かう環境が、自分には合っていたのだろう。

サッカーに打ち込む中で、自然と周囲から信頼を集めるようになり、高学年になる頃にはサッカーチームのキャプテンを任されるようになる。

さらに学校では学級委員を務めるなど、徐々に人の前に立つ機会も増えていった。
ただ、自分からリーダーになりたいと思っていたわけではない。

「クラスメイトから推薦されることが多かったんです。」

その後も、生徒会副会長、応援団長、駅伝チームのキャプテンなど、様々な役割を経験することになる。
周囲から期待されるたびに挑戦し、その経験がまた次の信頼につながっていく。

気づけば、かつて姉の後ろに隠れていた少年は、多くの人の中心に立つ存在へと成長していた。
もっとも、その頃から変わらなかったこともある。

それは、「人とのつながりを大切にすること」。

仲間と力を合わせることの楽しさ。
誰かの役に立つことの喜び。
そして、人から信頼されることの責任。

後にBAR経営者として、多くの人が集まる場所をつくる川林さんの原点は、すでにこの頃から形づくられていた。

人の気持ちを考えられる理由

現在、多くの人から「話しやすい」「相談しやすい」と言われる川林さん。
その人柄の背景には、決して平坦ではなかった家庭環境があった。

幼少期から学生時代にかけて、両親の仲は良好とは言えなかった。
父親は酒癖が悪く、家の中が不穏な空気になることも少なくなかったという。
そんな中、川林さんは自然と両親の間に入るようになっていた。

「今思えば、仲介役みたいなことをしていましたね。」

子どもながらに空気を読み、相手の気持ちを考えながら言葉を選ぶ。誰かが感情的になれば、その場を落ち着かせようとする。
当時は無意識だったかもしれないが、その経験が今のコミュニケーション力につながっていると感じている。

BARでは恋愛相談や人生相談を受けることも多いが、相手によって伝え方を変えたり、本当に必要な言葉を考えたりするのは、こうした経験があったからこそなのだろう。

一方で、家が心から安心できる場所だったわけではなかった。
川林さんにとって、自分らしくいられる場所は学校だった。

友人たちと笑い合い、サッカーに打ち込み、仲間と過ごす時間だけは何も気にせず楽しめたという。
だからこそ、学校生活には人一倍熱中した。

キャプテンや学級委員、生徒会副会長、応援団長などを引き受けてきたのも、仲間との時間が好きだったからかもしれない。

「学校が、唯一自分の素を出せる場所だったと思います。」

そんな川林さんの人格形成に大きな影響を与えた存在が、祖父だった。

祖父は非常に厳しい人だったという。
子どもながらに怖いと感じることもあったが、今では感謝している。

中でも印象に残っているのが、ある何気ない教えだった。

「立って小便するな。」

一見すると些細な話に聞こえるかもしれない。
しかし祖父は、「家には女性が多いんだから、掃除する人のことを考えろ」と教えてくれた。

自分の都合ではなく、相手の立場で考えること。
その考え方は、今でも川林さんの中に根付いている。

また、コロナ禍では”父親との別れ”も経験した。

決して順風満帆な親子関係だったわけではない。
それでも父親の”死”は、人生を見つめ直す大きなきっかけになった。

人はいつか必ずいなくなる。

だからこそ、会いたい人には会うべきだし、やりたいことは後回しにしてはいけない。
現在のBAR経営や、「人生は一度きり」という考え方にも、この経験は大きく影響している。

振り返れば、家庭環境は決して恵まれていたとは言えないかもしれない。

しかしその環境があったからこそ、人の気持ちを考えられるようになり、人の話を聞けるようになり、人とのつながりを大切にできるようになった。

多くの人が川林さんのもとへ相談に訪れるのも、こうした人生経験があってこそなのだろう。

挫折が教えてくれた、挑戦することの価値

中学時代、一番の思い出は間違いなくサッカーだった。

地区予選では優勝を経験し、チームとしても結果を残してきた。しかし、中体連ではベスト8で敗退。しかも相手は「勝てる」と思っていたチームだった。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、悔しさで涙が止まらなかったという。

「優勝したかったんですよね。」

小学生の頃は純粋にサッカーを楽しんでいたが、中学生になると勝利へのこだわりが強くなった。
部活動以外の時間も友人たちと自主練を重ね、少しでも強くなるために努力を続けた。

その姿勢は高校に進学してからも変わらなかった。

長崎県内の工業高校へ進学し、サッカー部に所属。結果は高校でもベスト8止まりだったが、仲間たちと過ごした時間は今でも大切な思い出として残っている。
そんな高校生活の中で、川林さんの人生を大きく変える出会いがあった。

それが、「ものづくりコンテスト」だった。

工業高校ならではの大会で、電気工事の技術や正確性、スピードを競う競技である。
扱うのはパイプやケーブル、スイッチ、コンセントなど、実際の現場でも使用される設備ばかり。
当時からものづくりが好きだった川林さんは、この世界に強く惹かれていった。

「高校1年生の頃から、絶対に出たいと思っていました。」

コンテストに出場するためには資格取得も必要だった。
放課後も練習を重ね、資格合宿にも参加しながら技術を磨いていく。

しかし、最初の挑戦は思わぬ形で終わりを迎える。

大会直前、練習中の怪我によって本来の力を発揮できず、代表選考から漏れてしまったのだ。
その時に負った怪我の跡は、今でも身体に残っているという。

それでも諦めなかった。
翌年、再び挑戦し、ついに念願だった出場権を獲得する。

が、今度は別の壁が立ちはだかった。
学校のテストでカンニングをしてしまい、それが発覚。結果として、大会への出場資格を失うことになったのである。

「なんてことをしてしまったんだろうと思いました。」

積み重ねてきた努力が、一瞬で失われた。

当然、後悔もあったし、周囲への申し訳なさも感じた。

だが、不思議とそこで終わりにはならなかった。
むしろ、その経験が次の目標を見つけるきっかけになったという。

失敗した事実は変えられない。
だからこそ、その先をどう生きるかが大事だと考えた。

その頃から意識するようになったのが、「技能五輪」だった。

技能五輪は、若手技術者たちが日本一を競う舞台であり、“技術者のオリンピック”とも呼ばれる大会である。

高校卒業後は、その舞台に挑戦できる環境へ進みたい。
そう考えた川林さんは就職活動を始める。

本当は九州で働くことも考えていた。
だが、技能五輪への挑戦環境や、ものづくりの実績を考えた結果、自ら関東へ行くことを決断する。

そして選んだのが、電気設備工事大手の関電工だった。

「技能五輪に出たい。」

その想いを胸に、長崎を離れ、新たな挑戦の舞台へと歩みを進めることになる。
振り返れば、高校時代は成功よりも失敗の方が多かったかもしれない。

怪我による挫折。
自らの過ちによる出場取り消し。

思い描いていた結果を手にすることはできなかった。

それでも、その経験があったからこそ、川林さんは挑戦をやめない人間になった。
後に何度も人生の転機を迎えることになるが、そのたびに前へ進めたのは、この高校時代に経験した数々の挫折があったからなのかもしれない。

人生の選択肢を広げてくれた出会い

高校卒業後、川林誠弥さんは電気設備工事大手である関電工へ入社する。

目指していたのは、技術者としての成長だけではなかった。
高校時代から憧れていた「技能五輪」への挑戦である。
就職試験は面接とSPIのみ。

「正直、余裕でした。」

そう笑いながら振り返るが、入社後の日々は決して楽なものではなかった。

技能五輪の出場権を獲得するためには、社内選考を勝ち抜かなければならない。
出場枠は限られており、全国から集まった優秀な若手技術者たちがその座を争う。

仕事が終わった後も練習を重ね、技術を磨き続ける毎日。
学生時代から続けてきた「努力を積み重ねる姿勢」は、社会人になっても変わることはなかった。

そしてその挑戦の先で、川林さんは後の人生を大きく変える人物と出会うことになる。
現在BAR経営を行うきっかけをくれた先輩だった。

その先輩自ら事業を手掛けていた(経営者として活動していた)。
当時の川林さんにとって、それは衝撃だったという。

「会社員以外の生き方があるんだ。」

これまでの人生では、良い会社に入り、安定した収入を得ながら働くことが当たり前だと思っていた。
しかし、自ら事業を立ち上げ、自分の力で収入を生み出している人が目の前にいた。

その姿は、川林さんの価値観を大きく揺さぶった。
技能五輪にも挑戦し、目標としていた舞台も経験した。
だが、その先に見える未来は、自分が本当に求めているものとは少し違うようにも感じ始めていた。

「優勝しても給料が大きく変わるわけじゃない。」

もちろん技術者としての誇りはあった。
それと同時に、自分の可能性をもっと広げてみたいという気持ちも強くなっていった。

そして川林さんは、新たな世界に飛び込む決断をする。
次に選んだのは、株式会社ジェーシービーだった。

周囲からは以前から、

「営業や接客が向いている」

と言われることが多かった。

自身も人と話すことは好きだったため、営業職にも興味を持っていた。
数ある企業の中からJCBを選んだ理由は、その知名度と企業規模だった。

「せっかくなら大きい会社で働いてみたいと思ったんです。」

実際に働いてみると、自分が思っていた以上に営業や接客の仕事に適性があることを実感した。

お客様と関係を築くこと。
相手のニーズを汲み取ること。
信頼関係を築くこと。

今のBAR経営にも通じるスキルの多くは、この頃に培われたものだった。
ただ、川林さんの中では当初から長く勤めるつもりはなかったという。

あくまで経験を積むための挑戦。

そう考えていたからこそ、一定の経験を積んだ後は次のステージへ進むことを決めた。
その後は知人からの紹介で飲食業界へ。
さらに警備業界でもアルバイトとして働き、二つの警備会社を経験した。

一般的に見れば、一貫性のないキャリアに映るかもしれない。
だが川林さん自身は、そのすべての経験に意味があったと考えている。

「結局、人間関係なんですよね。」

どの職場にも、優しく教えてくれる人がいた。
厳しく指導してくれる人もいた。
その環境や出会いが、自分を成長させてくれた。

だから仕事を選ぶときも、最終的に大切だったのは仕事内容だけではなく、一緒に働く人たちだったという。
そして、その価値観は今も変わらない。

人との出会いを大切にすること。
信頼できる仲間と働くこと。

その積み重ねが、後にBARという「人が集まる場所」をつくる原動力となっていく。

しかしこの頃の川林さんは、まだ知らなかった。
人生最大とも言える転機が、すぐ目の前まで迫っていることを。

【次回予告】

技術者として、営業として、そして一人の人間として経験を積み重ねてきた川林さん。
後編では、BAR経営に込める想いと、仲間と描く未来について伺う。

▶ 後編はこちら

SNSリンク・活動情報

川林誠弥さんの最新の活動や日々の発信については、Instagramからご覧いただけます✅
◼︎Instagram|川林 誠弥
https://www.instagram.com/seigrmx_tokane?stkn=MWp5cjllZ2gzZWRjeg%3D%3D&utm_source=qr

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